茨城平和学習の第三弾。
こちらも映画ロケで使用されることがあるそうで、
最近だと、映画「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」の最後のシーンで登場しています。
※映画に登場する特攻隊員は「陸軍」で、
予科練は「海軍」の教育機関のため、史実とは異なっているようです。
予科練とは?
予科練、正式名称「海軍飛行予科練習生」は、
1930年に海軍が発足したパイロット搭乗員の養成機関およびその練習生の呼称です。
第一次世界大戦が始まる前までは、戦争の戦い方の主流は
陸上での騎兵や歩兵主体の銃撃や砲撃、海上での艦隊戦術などでした。
しかし、第一次世界大戦以降、欧米列強は航空技術の軍事利用を積極的に進めていました。
海洋国の日本にとっては、他国の戦争はどうしても遠隔地での戦いとなっていきます。
そのため、国家戦力として海軍力の強化が何よりも重要であり、
航空機は海上での優越性を築く手段になると期待されていました。
航空機は遠距離の制圧力を高め、植民地政策や拡張主義的戦略においても非常に有効であり
さらに、航空機は、敵の意図や動きを事前に把握しやすいという利点からからも
戦局の優位性を確保できるとも考えられていました。
戦略的な観点で日本の軍事力向上と国家の利益確保・拡大のため、
日本も航空隊の設立・育成を力を入れて進めていました。
予科練の発祥は「横須賀(神奈川県)」航空隊に設置された教育部隊で、
後に国内最大規模の基地を有する「霞ヶ浦(茨城県)」海軍航空隊の近隣へ移転されました。
予科練は倍率74倍の狭すぎる門
当時のスーパーエリート集団といえは「海軍兵学校」出身の海軍兵たち。
日本の高等教育の最高峰といわれる東大よりも、入学は難関だったと言われています。
海軍兵学校は16際から19歳が入学対象だったのに対し、
予科練は更に若い14歳から17歳を入学対象としていました。
ちなみに当時の義務教育は尋常小学校6年間のみで(明治初期は4年間でした)、
その上位校として、現在の中学に相当する高等小学校2年間がありました。
予科練生の応募資格は、この高等小学校を卒業が必要とされていました。
尚、海軍兵学校は現在の高校に相当する旧制中学の在籍者(4年次以上)
もしくは卒業者でなければ応募できませんでした。
(話は少しずれますが、旧制中学校は尋常小学校卒業後に進学することもできますし
高等小学校を経て進学することも可能だったそうです。
当時の旧制中学は、非常に優秀且つ経済的に余裕のある家庭の子しか入学できず、
海軍兵学校に入学するのは、その前提条件と考えると
スーパーエリート集団とされているのも納得ですね。)
予科練は二次試験まで行われ、
各地方で実施される一次試験の合格者が、二次試験の受験資格が与えられ、
各航空隊に召集され、1週間ほど泊まり込みで体力測定や運動能力確認がなどを含む試験を課され、
不合格者から順次、帰されていたそうです。
1期生の倍率は、なんと74倍だったそう。
志願者5,807名に対し、入学できたのは、たった79名・・・・
太平洋戦争が始まって以降は入学枠が増えたそうですが、
それでも二次試験を突破できるのは半数以下という厳しいものだったようです。
超難関を突破し、入隊できても戦闘機の操縦員となれるのはわずか半数だけです。
予科練生のほぼ全員が「操縦員」を目指しているものの
苛酷な教育課程を経たのち、厳しい飛行適正検査によって半数は落とされてしまいます。
ただ、あくまで戦闘機の搭乗員になれないだけで、
偵察機などの戦略上重要な航空機に搭乗することになります。
海軍飛行兵は当時の少年の憧れ
少年たちにとって、軍人は憧れの職業でした。
その中でも海軍飛行兵の人気は非常に高かったと言われています。
設立当初、予科練の制服はセーラー服でした。
それに対して、海軍兵学校の制服は7つ金ボタンがトレードマークの詰襟の軍服でした。
”予科練生と言えば七つボタンの制服で知られています。
予科練生の制服は、当初は一般の海軍兵と同じ水兵服、いわゆるジョンベラでした。しかし、海軍の処遇に対して不満を持った予科練生が、
https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=3419&doing_wp_cron=1702974504.1951119899749755859375
出身校に「実態が違う、後輩を予科練に送らぬように」といった内容の手紙を送ろうと計画したことがあり、
事態を重視した海軍当局が予科練生に要望書を提出させ、
その中で希望が多かった七つボタンの制服を認めることにしました。
(制服だけではないと思いますが)処遇に不満を持った予科練生たちが
「俺たちも着たい!」と要望した結果、
1942年に予科練生の制服も7つの金ボタンがトレードマークの詰襟となったそうです。
太平洋戦争が始まると、日本の兵士不足は顕著になり、
特に何千時間という飛行練習時間が必要な航空機搭乗員の人員不足は死活問題でした。
予科練も入隊年齢を下げたり、乙種のハードルを下げ、さらに丙種枠まで作り、
更には統治下にあった台湾や満州、韓国からも募り、特丙種まで設置するなど
どんどん入隊枠を広げていきました。
そんな中、少しでも志願者を増やすための施策のひとつが
海軍服制改正により、予科練生の制服をエリート集団海軍兵学校と同じにすること。
その効果は大きかったようで、
7つの金ボタンの制服に憧れ、予科練に志願した少年も増えたそうです。
もうひとつ人気となったきっかけに
予科練を題材とした映画「決戦の大空へ」の影響も大きかったと言われています。
1943年の太平洋戦争真っ只中に公開された映画ですが、
いわば海軍候補生を増やすためのプロモーションビデオようなものです。
制服を変えたり、映画を使って認知度を高めたり、
今も昔も同じようなことをやっていたんだなぁとしみじみ感じました。
予科練平和記念館のみどころ 制服にちなんだ7部構成

先述の通り、予科練の象徴「7つの金ボタン」の制服にちなみ
入隊から特攻までを7セクションで説明されていて、
幼い少年たちが搭乗員となり戦地へ旅立つまでを追体験できるような構成になっています。
尚、館内の撮影は一切禁止となっております。
1部「入隊」
少年たちにとっての海軍飛行兵への関心度、応募資格や
入隊試験の課程と様子などがパネル展示に加え、
中央部には、人型のガラスケースが設置され、
実際の合格通知や予科練生が家族に合格の喜びを報告した手紙なども展示されていました。
2部「訓練」
予科練生の訓練について、ハンモックの畳み方から謎の時鐘ルール、
使用していた机や食器のレプリカの展示と共に
教育内容と生活の細かい様子も説明されています。
特に寝起きする宿舎が忠実に再現されたゾーンでは、
ハンモックが実際に並べて吊り下げられており、
こんな狭い不安定な空間で!?という驚きと、
本当に身体能力と順応性が高い人たちなんだなと実感させられました。
海軍の訓練の厳しさを表現する言葉に「月月火水木金金」という言葉がありますが、
予科練の厳しい訓練の様子がありありと感じさせられる展示です。
3部「心情」
予科練生が訓練中に、家族や友人に当てた手紙が展示されています。
宿舎内では私物は、各自「手箱」に収めて保管が許されていたそうですが、
この手箱のレプリカも展示されています。
かなりゆったりとした空間なので、じっくり時間をかけて読むことができます。
4部「飛翔」
飛行適正試験後の、練習機を用いての飛行訓練の様子の説明と合わせて
航空隊の成り立ちや、太平洋戦争の戦歴、戦局が悪化していく様子が
海に浮かぶ大陸をモチーフとした展示の中で細かく説明されています。
実戦に向けて訓練している練習生の様子と
一方で悪化していく日本の戦局の陰陽のコントラストに胸が痛くなります。
5部「交流」
厳しい訓練と悪化する戦局から一転、
当時の市民の暮らしと予科練生たちの休暇の様子などが
商品ポスターなどと合わせて展示されています。
昔の販促ポスターレプリカは流行りの「昭和レトロ」感も満載で
少しほっこりと楽しめる空間になっていました。
ただ、ポスターの標語にも時勢が反映されており、
市民生活も着実に苦しいものになっていることを物語っていました。
6部「窮迫」
予科練のあった(資料館のある)阿見町を襲った大空襲の様子を映像で説明しています。
映像公開中は出入り口が封鎖され、
さらに天井には空が投影され、B29の飛来音、上空からの銃撃音が再現されており、
実際にその場所に立っている感覚を疑似体験できます。
映像の中で、当時の空襲で被害にあった住民の方の証言があり、
あまりの惨劇にぞっとしました。
7部「特攻」
こちらも特攻隊の成り立ちなどが映像で紹介されています。
視聴室は部屋一面が真っ暗で、無数の白い小さな光が灯っており、
散っていった特攻隊員たちの弔いのように感じました。
最初にフィリピンマバラカットで結成された神風特別攻撃隊・敷島隊
5人のうち4人が予科練出身者だったそうです。
当時は特攻隊は海軍の花形ともいわれ日本国内でも大きく報じられていたようです。
まとめ
当時の人たちは、現代の少年たちよりも意識が高く特別な存在のように思えるけど
実際には、映画の影響で夢を思い描いたり、制服かっこいいと容姿に関心を持ったり、
家族と離れてホームシックになったり、仲間とわいわいゲームで遊んだり(当時は将棋や囲碁ですが)、
異性に興味を持ったり、戦時中という状況を除くと
現代の若者と何も変わらないのだなということを改めて感じました。
「永遠のゼロ」にも描写がありましたが、
特攻隊員は自らの戦果報告を戦艦に突っ込みながら
モールス信号で基地の電信していたそうです。
こんな若い人たち1人1人が、その背中に日本という国の未来を背負い、
命懸けで闘っていたと思うと胸が詰まる思いです。
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