映画ロケ地にもよく使用されていて、航空隊そのものが題材となった「永遠のゼロ」をはじめ、
「#マンホール」「テセウスの船」「ゴジラ-1.0」などでも使用されました。
日本の航空隊の歴史
現在の日本の自衛隊は、陸・海・空の3部隊から構成されていますが、
当時は、陸・海の2部隊制。(自衛隊ではなく正式な軍隊ですが)
航空隊は軍隊として独立した機関ではなく、陸軍・海軍それぞれに設置されていました。
大まかな違いは、それぞれの軍隊の役割同様、
陸軍航空隊は陸上戦支援と爆撃が主務、
海軍航空隊は艦載機で制海権戦と艦隊支援に従事していたことです。
海軍の航空隊は、空母の狭い艦上から戦闘機を離艦・着艦させる、
戦いの場は海上のため撃墜=死という極めて苛酷であったことからも
選りすぐりのエリートたちが揃っていたというのも頷ける話です。
当時の少年たちの憧れの仕事のひとつだったそうです。
※詳細は「予科練平和記念館」訪問レポで書きたいと思います。
ちなみに士官以外は徴兵が大半を占めていた陸軍に対し、海軍は志願兵が基本です。
航空隊の設立は、後進国だった日本
明治~昭和初期にかけて日本の軍事力は欧米列強にとっては脅威となるほど
躍進を続けていました。技術力の進歩も目覚ましかったと言われています。
日本の航空隊は欧米諸国よりに遅れをとっていた、いわば後進国でした。
1920年には日本も海軍で航空隊を設置していますが、
イギリスの初実戦は1914年の第一次世界大戦中だったのに対し、
日本の初実戦は1937年と約20年近くのビハインドがありました。
日本の陸軍航空隊は、フランスの影響を強く受けており、
初期の航空機や航空戦術に関する基本的な教義をフランスから学び、
陸軍の初期の飛行機は、主にフランス製のものだったそうです。
一方の海軍航空隊は、1920年代初頭にはドイツに技術者やパイロットを派遣し
ドイツでの航空技術や戦術に関する訓練を受けています。
航空母艦についてはイギリス製を導入し、日本の航空母艦の基礎となっています。
艦隊戦の理念や運用方法において、イギリスの経験も一部反映されています。
ちなみに航空隊の設立には欧米諸国から遅れをとっていた日本ですが、
世界初の「空母」を建造は日本だったと言われています。
1922年建造の「鳳翔」、実戦で使用された航空母艦は「若宮」だそうです。
筑波海軍航空隊とは?
少し前置が長くなりましたが・・・・
筑波海軍航空隊は、1939年に開隊した海軍の航空隊です。
1939年と言えば、1937年に始まった日中戦争の真っ只中。
(この日中戦争の長期化が、後の太平洋戦争開戦と敗北に繋がっていくんですね・・・・)
太平洋戦争が開戦したのが1941年12月なので、
開戦のわずか2年前に設立された比較的新しい部隊だったようです。
筑波航空隊は特攻発祥と部隊と言われています。
特攻と言えば太平洋戦争末期の神風特別攻撃隊が有名ですが、
初の部隊は、筑波で設置された神雷部隊桜花隊(第七二一海軍航空隊)です。
筑波航空平和記念館には、
この神雷部隊桜花隊の設立背景、搭乗員の方の生証言などが
資料や映像などによって語られています。
神雷部隊桜花隊とは?
神雷部隊桜花隊は筑波海軍航空隊に1944年に設置された
人類の歴史上、初めて体当たりを前提とした部隊です。
「十死零生」
生きて帰る可能性が全くない、出撃=死を意味します。
桜花隊は、500Kgという重さの爆弾を搭載し特攻したことから、「人間爆弾」と呼ばれています。
非常に憤りを感じる表現ではありますが
アメリカのスミソニアン博物館にはこの桜花の機体が展示されており、
(2023年時点で展示があるかは不明)
「BAKABOMB(馬鹿の爆弾)」と説明されていました。
小説永遠のゼロにも、元特攻隊員がこの展示を見て
強いショックと無念を抱くシーンが描かれています。
※ただ表現の意図には所説あり、
当時の日本の開発技術や、特攻隊員への敬意も書かれていることから
決して敗戦国である日本を蔑んだり、隊員への侮辱ではなく、
命を粗末にした作戦そのものへの皮肉ともいわれています。
当時、この作戦は厳しい戦況にある日本軍の起死回生となると考えられていました。
ひとたび出撃すれば戻ってこれないが、
たった一発でも敵艦艇を追撃することができる兵器として期待されていました。
筑波海軍航空隊は、当時の海軍エリートたちが集結した部隊でした。
海軍エリートは「海軍兵学校」の出身者たちのことを指しています。
当時は東大など足元にも及ばぬくらい入学が困難だったと言われる「海軍兵学校」。
海軍は伝統的に、上官が率先して軍の先頭に立ち、あらゆる作戦の名誉ある最初の手柄は、
エリートたる「海軍兵学校」出身者であるべきという考えがありました。
日本の危機的戦局を覆す起死回生の作戦の手柄も、
当然、海軍兵学校出身者であるべきということから、
神雷部隊桜花隊4つの分隊長は、全員海軍兵学校出身者でした。
さらに、後期の九州から沖縄に向けての特攻や海外戦地で募られた特攻が、
志願というの建前のもの、ほぼ強制的であったことに対し、
神雷部隊桜花隊は、他部隊からの異動志願者で構成されていたそうです。
百里原海軍航空隊を原隊として、
筑波海軍航空隊で1944年10月に設置されたのが神雷部隊桜花隊です。
筑波海軍航空隊記念館 みどころ①展示資料
展示資料や映像には4名の元特攻隊員について紹介されています。
①刈谷勉さん
桜花開発中の搭乗実験中に墜落
②三橋謙太郎さん
桜花出撃で亡くなった分隊長
③湯野川守正さん
訓練中の不時着、片目の視力を失う
④林富士夫さん
鹿屋航空基地で出撃者を指名した教官
約20分の映像が常時上映されており、特攻隊のおいたちや証言が紹介されています。
特に印象深かったのは、西田高光中尉という方が従軍記者への取材で
「自分は日本人の誇りのために死ぬ」と語った話です。
当時、日本は国際連盟を脱退しており、
戦争の仲裁に当たってくれる機関として頼れる先はどこにもありませんでした。
そして日本もそうしていたように世界には戦争に負けて植民地となっていた国が多くあり、
その扱いの劣悪さを兵隊は皆知っていました。
「日本もこの戦争に負ければ植民地になってしまう。
だからこそ祖国が負けることを命がけで防ぎたい」
もし日本が負けることになり植民地となったとしても、
そして防ごうとした人がいたことが、必ず独立する際の励みになるはず。と。
筑波海軍航空隊記念館 みどころ②現存する司令部庁舎
何といっても当時の建物が現存している稀少な軍遺跡・海軍司令部庁舎。
一部修復はされているとは言え、窓・照明具などは当時のままです。
同じ階段、同じ景色を100年近く前の当時の軍人も見ていたと思うと
何だか不思議な気持ちになります。
この階段の風景は永遠のゼロでは、
ドラマ版では教官をしていた宮部久蔵(演:向井理)の教え子たちが、
なかなか合格点をくれない宮部への不満を口にしながら怒りながら昇るシーンや
映画版でも練習中に殉職した教え子を侮辱された宮部(演:岡田准一)が上官に対し抗議し
教え子の名誉を守ったことに感銘を受けた、
そのほかの教え子たちが出迎えるシーンで登場しました。
こちらの病室は、映画版ドラマ版でも登場しました。
宮部を敵機から身体を張って守り負傷し入院した大石を宮部が見舞い、
ここで物語のひとつのキーアイテムとなる外套を渡すシーンです。
ちなみにゴジラー1.0では、ゴジラ撃滅作戦出陣前に
若い水島(演:山田裕貴)が、野田(演:吉岡秀隆)と秋津(演:佐々木蔵之介)に
自分も艦艇に乗せてくれ、作戦に加わらせてほしいと懇願するシーンで登場しています。
筑波海軍航空隊記念館 みどころ【おまけ】廃墟化した病院
戦後はこの海軍航空隊跡地は、病院として使用されていた時期があったそうで
司令部商社の裏側には廃墟化した病院の建物が残っています。
建物内には安全上の理由から入ることはできませんが、
渡り廊下を歩くことはできます。
(渡り廊下を抜けると慰霊塔や当時の軍時遺跡もあります)
訪問したのが夕暮れの近い時間帯だったこともあり、少々怖かったので
昼間の明るい時間に行くことをお勧めします。
まとめ
レイテ沖海戦で、大西瀧治郎中将が編成した神風特別攻撃隊を皮切りに
「死ぬことを前提」「自らを犠牲にすることこそが大和魂」と意味が変わり、
命を武器とすることが当然のように繰り返られるようになってしまいました。
そのはじまりは、敗退が続いてた厳しい日本の戦局を何とか打開するための
起死回生の一手だった1回限りの特攻作戦だったのです。
78年前に日本の敗戦という形で終結した太平洋戦争を戦った方たちは、
最年少兵(14歳)の方でも既に90歳を超えています。
生きた証言を直接聞く機会もどんどんなくなっていく中で、
こういた歴史を学び知る機会としての軍事遺跡は非常に価値のあるものです。
映画やドラマのロケ地の「聖地巡礼」として訪問される方が多いと思いますが
ぜひこれがきっかけとなり、少しでも学びが後世に繋がると良いです。
コメント